レオナルド・ダ・ヴィンチに画家としての名誉をもたらすことになった傑作「最後の晩餐」。
実は、フィレンツェでの挫折後、ダ・ヴィンチが腐らず、ミラノであらゆることにチャレンジしたからこそ、「最後の晩餐」が生まれたことをご存じでしょうか?
私なんか仕事でイヤなことがあると、スグにふてくされて、腐って、あきらめてしまいます。
しかし、「最後の晩餐」が生まれるまでのダ・ヴィンチの道のりを考えると…『そんなことではイケない!』と勇気をもらえます。
みなさんはどうですか?
そんなことを頭の片隅に入れながら、ミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会にある「最後の晩餐」を、ぜひ見てきてくださいね。
フィレンツェで
まずは、レオナルド・ダ・ヴィンチが13~29歳に過ごしたフィレンツェ時代の活躍と名声、そして挫折を、順を追ってみていきますね。
活躍と名声
フィレンツェ近郊の村で生まれたレオナルド・ダ・ヴィンチは、13歳の頃、フィレンツェのヴェロッキオ工房に入門し、活躍しはじめます。そして20歳の頃「受胎告知」を描き、画家として名声を得ます。
既にフィレンツェで優れた工房として有名だったヴェロッキオ工房。
その工房に、13歳の頃入門し、メキメキと実力をつけていきました。
工房には、世界史の教科書にでてくるボッティチェリや、当時フィレンツェで有名な先輩が、数多くいました。
そんな中で切磋琢磨していき、20歳の頃描いたのが、「受胎告知」です。
「受胎告知」は、ダ・ヴィンチに、画家としての名声を得ることにもなった絵画です。
そして、ボッティチェリや有名な先輩とも、肩を並べるほどにもなりました。
挫折
が、29歳の時、フィレンツェで挫折を味わいます。バチカン宮殿にある礼拝堂の壁画を描く画家として選ばれなかったのです。
少し補足します。
ローマ教皇の公邸であるバチカン宮殿にある礼拝堂の壁画を描く画家の派遣依頼が、フィレンツェ共和国にありました。
その画家として選ばれることは、とても名誉なことでした。
が、ダ・ヴィンチは、選ばれなかったのです。
フィレンツェ共和国が選んだのは、ボッティチェリやヴェロッキオ工房の先輩たちでした。
もちろん自分より優れていた先輩なら、ダ・ヴィンチも納得したハズです。
が、ボッティチェリの画法は、すでに時代遅れだったりと、ダ・ヴィンチとしては自分が選ばれなかったことに、納得がいかなかったのです。
新天地 ミラノへ
挫折から数ヶ月後、29歳だったダ・ヴィンチは、ミラノへ移り住むことを決意。腐らず、あらゆることにチャレンジします。その結果、権力者の関心を引くことになり、ミラノへ来て13年後に、傑作「最後の晩餐」を描くことになります。
では、順を追って説明しますね。
腐らず即興歌手?
バチカン宮殿にある礼拝堂の壁画を描く画家の選考からもれた数ヶ月後、ダ・ヴィンチはミラノへ移り住むことを決意します。しかし、画家としてではなく、即興歌手としてです。
少し補足します。
きっかけは、ダ・ヴィンチに「ミラノ公国へ外交使節団の一員として、行ってくれ。ただし芸術家としてではなく、音楽使節(の即興歌手)として」とフィレンツェ政府からの依頼があったからでした。
もともとダ・ヴィンチは、フィレンツェ時代から、リラという楽器で即興で歌うことも得意でした。なので、そのような依頼があったのです。
ダ・ヴィンチにとっては、本意ではなかったハズです。
ですが腐らず、ダ・ヴィンチはミラノに向かいます。
そしてミラノで会ったのは時の権力者、ルドヴィーコ・スフォルツァ。
ルドヴィーコ・スフォルツァは、即興歌手としてのダ・ヴィンチを評価。
その結果、ルドヴィーコ・スフォルツァから、舞台演出家として採用されることになりました。
ダ・ヴィンチは舞台演出家として、なんと、機械仕掛けで、宮廷のお祭りを華やかにする自動装置をつくったのです。
あらゆることにチャレンジ、絵画では新しいスタイル
さらにダ・ヴィンチは、発明家や幾何学、解剖図の立体化など、あらゆることにチャレンジし、また絵画では、新しいスタイルを生み出しました。
発明家としては、
飛行機械や、ヘリコプターの原型の設計しました。
幾何学としては、
ウィトルウィウス的人体図を描きました。
これは人の体のプロポーション、つまり体の均整・調和・釣合いを研究した結果です。もちろんそこにはダ・ヴィンチ自ら、人の体を計測し、研究した結果が盛り込まれています。
他にも、解剖図の立体化などさまざまなことに取り組みました。
また絵画「岩窟の聖母」では、新しい絵画のスタイルを生み出しています。
ちなみにこの「岩窟の聖母」には、それまで絵画には存在しなかった三角形の構図、つまり新しい絵画のスタイルが取り入れられています。
権力者からも、絵画の注文が…
そしてダ・ヴィンチが新しい絵画のスタイルを生み出したことは、権力者ルドヴィーコ・スフォルツァの関心を引くことにもなり、彼からも絵画の注文が入りました。
たとえば、
1490年頃描いた「白貂を抱く貴婦人」。
さらに、
「ミラノの貴婦人の肖像」
2つの作品とも、ダヴィンチがミラノに来てからチャレンジした、幾何学や解剖図の立体化などの成果を取り込み、フィレンツェ時代よりも発展させた画法になっていました。
当然、注文した権力者ルドヴィーコ・スフォルツァも大満足。
そしてついに…
ミラノに来て13年後、傑作「最後の晩餐」
そしてミラノに来て13年後の42歳のとき、画家としての名誉をもたらすことになった傑作「最後の晩餐」の注文が、レオナルド・ダ・ヴィンチに飛び込み、4年後の1498年に完成させました。
画家としての名誉をもたらすことになった傑作「最後の晩餐」。
注文者は、ダ・ヴィンチがミラノへ最初にきたときに、即興歌手として採用した権力者ルドヴィーコ・スフォルツァでした。
20歳の頃、画家として名声を得ることにとなった「受胎告知」から、26年が経ち、ダ・ヴィンチは46歳になっていました。
さいごに
レオナルド・ダ・ヴィンチの傑作「最後の晩餐」が生まれた背景は、決して平坦な道のりでは、ありませんでした。
フィレンツェでの挫折後、ダ・ヴィンチが腐らず、ミラノであらゆることにチャレンジした結果、「最後の晩餐」が生まれました。
私なんか仕事でイヤなことがあると、スグにふてくされて、腐って、あきらめてしまいます。
しかし、「最後の晩餐」が生まれるまでのダ・ヴィンチの道のりを考えると…『そんなことではイケない!』と勇気をもらえます。
みなさんはどうですか?
ぜひ、そんなことを頭の片隅に置きながら、ミラノにある「最後の晩餐」を見てきてくださいね。
参考文献
- 天才発明家ものがたり レオナルド・ダ・ヴィンチ 中央公論社
- Leonardo da Vinci - Wikipedia イタリア版
- レオナルド・ダ・ヴィンチ - Wikipedia 日本語版